狭義の『文学批評』の誕生、スクルーティニー、ニュークリティシズム3~文学とは何か読書メモ4

  1 英文学批評の誕生3

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 『名文鑑賞的なおしゃべりを排し、テクストを分析するのをあえていとわない批評方法』である実践批評。『文化的・社会的コンテクストからいったん切り離し、その詩や散文だけに焦点を絞りこむことで、文学の『偉大さ』や『中心性』が判定できるという前提』をもっていたスクルーティニー。

 ここから発展して、アメリカの『新批評』、ニュークリティシズムが生まれる。

 

 ※この章を読んでいて、批評の態度や『精緻に』というのは分かったが、ストーリーについてはどう読んでいたのかが全然分からなかった。後の章の構造主義分析などと比べて、ストーリーの扱いというのはどうしていたのだか。

 

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 リチャーズによって『厳密この上ない『科学的』心理学の諸原則を批評がよってたつ基盤にすえ』ることで、それは功利主義的な手法で、軽量可能な行動心理学的モデルを使ったわけだが、1930年代~50年代にかけて一世を風靡した、とのことだ。フィッツジェラルドとかその後か、でも世界恐慌が1929年だが、案外そのころのアメリカって知らないな。まあ、一世を風靡したそうだ。

 

 で、その影響を紹介した後、

『スクルーティニーの場合と同じく、根無し草のインテリの自己弁護的イデオロギーでしかなかった。彼らは、現実の社会に見出すことのできなかったものを、文学の中に草案したにすぎない。つまり、新しい宗教としての詩、産業資本主義社会の疎外化現象をまぬがれるノスタルジックな安息の場としての詩である』

 とさっそく否定に入る。そのあたりはスクルーティニーと同じ。『詩を物神にかえた』、というのは逆方向だが、

『詩とは『市民の個性を犠牲にすることなく国家の目的を達成する、いうなれば、民主主義国家のようなものだ』とジョン・クロウ・ランサムらしい。初期の英文学批評と同じわけだ。

 

 あとは、『たいていの文学理論が、ある特殊な文学ジャンルを無意識のうちに中心化し、その特殊例から一般論を引き出してる』

と。ニュークリティシズムの場合は詩となる。スクルーティニーもそう。長編小説の批評となると、まだこのころは対応する文学理論はなかったのかな。

 

 エンプソンという批評家の紹介。英国コモンセンス派、経験論的な批評家とのこと。これで次の章の予告で、この章は終わる。

 

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 まだ、

 2.現象学、解釈学、受容理論

 3.構造主義記号論

 4.ポスト構造主義

 5.精神分析批評

 

 とある。カルチュアルスタディーズって10年前くらいに流行ったのだったか。

 とにかく、文学批評というのは、歴史的には、宗教の没落によって『文学』が国民の文化的基盤として必要とされる、という国家的な要請があり、アカデミズムの対象となる=権威化される、という中で生まれてきた。また、そこから色々と詳細化が進み、というところ。文学ね。

 

 現代の日本において、文学(純文学)というものにどれだけ世の中の人は興味があるだろうか。夏目漱石くらいなら誰でも知ってるし、一度くらいは『教科書』で読んだことがあるだろう。近代文学(近代小説)以前なら、松尾芭蕉なり、紫式部なり、色々と日本文化の『文芸』というところでいると。

 なので、過去のものについては、権威化され、古典とされ、学校の教科として教えられるというところもある。いくらかアップデートされて、吉本ばなななりも、教科書に加わって、というのもあるか。

 

 そういう学校教育という経路で、文学(小説)を読むというのはあるにしろ、ま、この本の最初の、想像的(イマジティブ)な文章表現(ライティング)、虚構、という文学の定義に当てはまるものは、マーケットとして、文化としてはマイナーな存在だろう。

 いや、ライトノベルまで含めれば、イマジティブなライティングには違いないわけだし、まだまだ社会の中で勢力を保ってるとも言えるかもしれない。東浩紀みたいだ。でも、それは『文学』ではなく大衆文化、とされるか。名文ではないので。

 

 でもまあ、虚構、フィクション、という部分ではまだまだマーケットも読者もあるし、社会的な影響力もあると。小説に限らず、漫画やアニメ、ゲーム、ドラマ、映画なども含めて、虚構に対してはまだまだ需要があると。

 

 そうであれば、もう少しこの本を精密に読んでみる価値もあるか。