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狭義の『文学批評』の誕生、スクルーティニー、ニュークリティシズム2~文学とは何か読書メモ3

 1 英文学批評の誕生2

y-cybernetics.hateblo.jp

  スクルーティニーとは吟味という意味。中産階級出身のリーヴィスという人物がキーパーソンとなる。スクルーティニー一派の親玉というわけだ。

 その影響はすさまじく、『1920年代初頭には英文学が研究にあたいする課目かどうか皆目検討つかなかったのに、1930年代の初期には、英文学以外のことに時間をついやして何になるのかが問題となるくらい』

とのこと。日本だと1950年代、60年代になるかな。

 『英文学はもはやアマチュアの印象批評ではない。人間存在のもっとも根源的諸問題ー人間であるとはどういうことか、他者と意義深い関係をむすぶとはどういうことか、もっとも本質的価値の核心からはなれることなく生きるとはどういうことかーがくっきりと浮き彫りにされ、真剣な吟味の対象となる議論の場、それが英文学となった』

『英文学研究が道徳性の中枢を占めることを力説し、文学研究が社会生活全般と密接なつながりをもたねばならぬことを説く』

 と、まあなんだか途方もない主張をしていたのだが、その血脈は現在も生きている。日本でもまだこういったゴリゴリの『文学者』というのは60代以上にいるにはいるかな。

 

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 気まぐれな文学『趣味』に対抗して、厳密な批評的分析の重要性を、『ページの上の言葉』に学問的関心を払う重要性を説いた。それは、『文学の中だけに』言語を創造的に駆使したいとする欲求が残っていて、『大衆』社会の、言語や伝統的価値を別紙する功利主義とは一線を画すものとして、文学を高く評価する、という態度だ。(宗教ぽい)

 『産業資本主義の俗悪性に対して果敢に挑みかかる論戦』ということでもあったと。ここで英文学の地図が塗り替えられるということも起こった。

 『ある作品は『人生のために作られている』が、他の作品はあきらかにそうではないといった区別を立てた』と。

『スクルーティニーは単なる雑誌ではなくて、道徳と文化を旗印にした十字軍的集結の場であるとされ』たとあるが、白樺派っぽい感じでもあるね。

 

 ただまあ、この一派は実際に社会変革に役立つようなことをしたわけでもなく、そういう政治的な言葉で語るということもしなかった。

『西洋の没落は、精密な文学作品の読解によって、回避できると本気で信じているのが『スクルーティニー』なのである』と。『ほんとうに、文学は産業労働やメディアの功利主義のもたらす感性の鈍化をおしとどめることができるのか? 』

 と疑問。批判の始まり。

 

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 『文学を読めばあなたはよりよい人間になれる』というのが主張だが、実際のところ、ナチス強制収容所司令官が暇な時間にゲーテを読んでいたという事態が10年後くらいには起こっていた。文学趣味があったとしても、それは精神に直接影響を及ぼさないと。

 

 このあたり、上流階級を批判しつつも、労働者階級には落ちたくないという中産階級出身のリーヴィスの限界というところが出てくる。上(古典的な文学評価)と、下(大衆文化)から自信を守るために、特定の作品を持ち上げ、批評もわかる人だけわかればいいという態度の、ある種のエリート主義に陥ってしまったのだ。

 

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 リーヴィスに影響を与えたエリオットについて少し。中産階級リベラリズムの批判というところから、ルソー的な『有機体的社会』への希求と。『伝統』というのを重視とか。

 基本的には似たラインで、カウンターカルチャー的な『文学』の崇拝ということか。

 

 この2人に共通しているのは、『自分たちが反対している社会システムを政治的に分析するのを拒んだために、自然発生的ー創造的生に関する、具体的になろうとすればするほどかえって声高な抽象論に堕したおしゃべりしか後に残さなかった』

 ということだ。結局、自分たちにしかわからない言葉、理論で語るということは、政治的な言語を使ってそういったテーブルにつかないということは、排他的なエリート主義でしかないと。

 

 このあたりで、2/3は終わり。実践批評、精密な批評、というリーヴィスの手法についてはこの後少し語られる。どちらかというと、文芸批評の歴史、という面での文章が続いたと。

 あとは、リーヴィスは『生』(ライフ)を感じられるか感じられないか、というのを批評の中心にしたが、まあそれもよくわからない概念。D・H・ロレンスという作家の中に頻出したテーマだとかなんとか。

 

 イマイチ、英文学の、特に『詩』については興味ない自分としては退屈なところもある章だが、社会の変化という面では面白い。まとめると、なんとか大学に入った文学批評というものを、スクルーティニー一派が、より高いステージ(勘違い含む)にまで高めたというところか。