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ロシア・フォルマリズム、『文学』の定義~文学とは何か読書メモ1

読書・書評

 イーグルトンの読書メモ 

文学とは何か――現代批評理論への招待(上) (岩波文庫)

文学とは何か――現代批評理論への招待(上) (岩波文庫)

 

 序章―文学とは何か?

 

 文学理論というものが存在するなら、その対象の『文学』と呼ばれる何かが存在することになるがどうか、と最初の問題提起。

 概念的には、想像的な文字表現、虚構、と最初の答え。すぐに否定で、歴史的にはホッブスリヴァイアサン』のような思想書も『文学』に含まれていた、というので、事実と虚構、という分け方では『文学』を捉えられない。

 また、漫画や通俗小説は『文学』から除外されていると補足。

 

 別の文学の定義。『文学を文学たらしめるのは、それがある特殊なやり方で言語を駆使しているかどうかで決まるとしたらどうだろう』と提起して、『日常言語に加えられた組織的暴力行為』であり、記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)との間に不均衡があるのが文学で、それこそが、ロシア・フォルマリストの定義だと。

 

 『文学とは偽装された宗教でもなければ、心理学でも社会学でもない。それは言語の特殊な組織体である(中略)文学は物質的事実そのものであり、その機能は、機械を調べるのと同じように分析することができる』

 と、象徴主義文学の神秘主義まがいの理論を攻撃したと。

 

 代表的な理論が『異化効果』ということだ。

 

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 その後批判で、日常言語に対する『詩的』な言語というのは、規範に対する逸脱ということであるので、その規範と逸脱の社会的コンテクスト、歴史的コンテクストに応じて変わると。異化作用というのは、文脈に依存していると。

 彼らの定義は『文学』ではなく、『文学性』だと。そして、煎じ詰めると、何に『文学性』を見出すかは読者の側の話になってしまう。生まれたときから文学であったテキストもあれば、時がたつにつれ文学にランク付けされるようになったものもある。何が文学で文学でないかもコンテキストに依存すると。

 

 『文学』という用語は『雑草』という言葉と同じような働きをする。存在論的用語ではなく、むしろ機能的用語であると。

 

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 『文学』とは、高く評価されている文字表現であるという定義の登場。この定義の問題点は、どんなものでも文学になり得るし、逆に、シェイクスピアが文学ではなくなるということもある、ということ。価値判断は変化しやすいのだ。

 

 言語学者の言う『言語交際』、つまり、伝達行為の中身ではなく行為そのものが会話の中で大きな意味をしめる。たとえば天気についておしゃべりするなど。そういうくだらないものについても、同一のバックグラウンドを持つもの同士であるという面が必要になる。つまり、イデオロギーということだ。(イデオロギーの一部)

 

 『文学は、昆虫が存在しているように客観的に存在するものではないのはもちろんのこと、文学を構成している価値判断は歴史的変化を受けるものである。そして、さらに重要なことは、こうした価値判断は社会的イデオロギーと密接に関係しているということだ。イデオロギーとは単なる個人的嗜好のことを指すのではなく、ある特定の社会集団が他の社会集団に対して権力を行使し権力を維持していくのに役立つもろもろの前提事項のことを指す』

 と結論。

 

 客観的なつもりの言葉も、背後には意識されざる価値判断の体系がある、と。まとめの感想だが、『文学』(純文学)の定義は、まあふわふわしたものなわけだが、とはいえいくらか流通している。

村上春樹は純文学ではない』

 とかいった感じで。

 ただ、こういう発言も現代の日本で、日本人同士の会話として成立しているからこその価値判断なわけで、まあ、定義はしてもすり抜けていく、という感じがある。

 

 ロシア・フォルマリズムについては、異化効果ぐらいで個人的には十分。島田雅彦芥川賞の選評で大江健三郎から、ロシア・フォルマリズムを勉強しろ、と諭されたというのがあったぽいが、まあどうでしょうかね。